江戸時代、日本橋の南詰めには幕府が設置した大切な施設が2つありました。
橋のたもとの西側には決まり事の書かれた立て看板が並ぶ「高札場」(こうさつば)がありました。
そして東側にあったのが「晒場」(さらしば)です。
晒場とは罪を犯した罪人が見せしめのために晒される場所です。
下記の絵は明治期になって江戸時代の頃の日本橋の晒場を懐かしんで(?)描いたものです。
「徳川時代御仕置図」(『風俗画報』より。アリギリス蔵) |
女性と関係を持った「女犯の僧侶」はこのように3日間晒されて、その後、本寺へ引き渡され、寺の決まりによって裁かれました。
しかし、夫のある女と密通の場合は晒のあと問答無用で寺社奉行へ引き渡され、獄門(斬首刑)だったそうです。
道行く人がさほど気にとめていないのは、女犯の僧侶が晒されているのはそんなに珍しいことではなかったからです。
とは言っても、天保12年3月に一度に48人の僧侶が晒刑になった時は、お江戸はその話題で持ちきり。
3日間は見物人でごった返したそうです。
いくら物見高いとはいえ、これは物好きすぎるでしょう江戸人。。。
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